~人間は新しい欲望を学ばなければならない~
人類はこれまでの歴史で、みずからの人間としてのあり方、文明のあり方を、自覚的に求め、自覚的に生み出していくという営為を行ったことはなかった。常に人類は、集団性の生き物として、その共同世界の中に自然発生的に生まれてくる集団労働のあり方や経済的要因にうながされながら、常に自然発生的に文明を生み出し、自然発生的に自分たちの諸衝動や価値評価表を育て続けてきた。
人間のあり方、文明の在り方は、どのようなものとして成長していくことがもっとも理想的で正しい在り方かということについて、自覚的に問いかけることもないまま、常にその時々の歴史的要因、経済的要因のうねりにのまれながら、常に自然発生的に歴史を作り続けてきた。
その「自然発生性」の流れの果てに、今の人類がたどり着いているのは、人間としての精神性の豊かさや人間的意識構造の真の進化とはどういうものかについて問いかける基盤を完全に喪失してしまった、物欲衝動にだけ根ざした金儲け至上の文明世界である。
精神的価値、人間的価値の本質について問いかけることもないまま、物質が直接的に与えてくれる快感、歓楽、利便性というもっとも安直な物欲対象だけを求め続けながら、人類はその「欲望の質」自体を、時代を経るごとに、より卑しいものへと退化させ続けてきた。科学やAIはたしかに目覚ましい進歩を遂げてきたが、しかしそれらをテクノロジーとして利用する人間自体の精神性の質、特にその精神の中に生まれる「欲望の質」がより卑しいものへと変質し続けているのは事実である。
より卑しいものへと退化する「欲望」が、高度な科学テクノロジーを利用して生み出していく文明世界、それがいかに歪んだものであるか。人類が持つ「欲望の質」と、人類が生み出す「文明の質」は、たがいに深く結びついているのである。
「欲望」について、ニーチェは示唆深い言葉を残している。「人間は新しい欲望を学ばなければならない」というのがそれだ。19世紀末に発せられた言葉ではあるが、すでにこの時期から、人間の欲望が物欲衝動だけに根ざした卑しいものへと加速度的に変質し、退化していくことを、ニーチェは感じ取っていたのだ。
「欲望」には、さまざまなものがある。金銭や金儲けだけを求める卑しい欲望もあれば、精神的豊かさや人間としての真の成長を求める高度な欲望もある。思考し、本質にあるものを見出したいと欲する知的欲望もあれば、真の仲間を求め、理解し合い、つながり合って生きていきたいと欲する人間性に根ざした欲望もある。
これらの「欲望」は「衝動」と同質のものである。ニーチェが言う「新しい欲望を学ばなければならない」というのは、人間性に根ざした真の意味での知性的衝動を育てなければならないということであり、同時にそれは、より豊かに高度に洗練されていく価値意識を創出していかなければならないということでもある。
~新しい人「間典型」に向かって~
この「衝動」、「欲望」というものは、先にも触れたように、筋肉とよく似た性質を持っている。筋力トレーニングによるバンプアップと同じように、恒常的に刺激を与え続ければその衝動は育ち、刺激を加えなければ退化していく。
経済至上の価値共有世界を生きる今の人間の精神をひとつの身体にみたてて比喩的に表現するとすれば、物欲を司る特定の部位の筋肉だけが異様に肥大し、人間性に基づいた知的活動を行うために不可欠の部位は萎縮し、さらには際限もなく摂取され続ける物欲という栄養素によって、全身がブヨブヨの脂肪で覆われていく。この異形な醜い姿形が、今の人間の精神的身体である。
これとは逆に、共生衝動を基盤にした価値共有世界においては、本質的に集団性生物である人間精神の姿形は、バランスよく成長していく。
共生のためには、その集団の成員同士が、たがいに理解し合おうとし、たがいに近づき合おうとし、そして、ともに支え合い、ともにつながりあって生きるための具体的方法を、具体的な集団的システムとして、作り出していかなければならない。そのためには個々人の意識は、必然的に個我の狭い領域を超え、他者の意識や集団的意識世界に向かって広がっていくだけの知性的膂力を身につけていかなければならない。
その結果、自己を相対化し、他者を相対化する意識的能力は高まっていき、集団と個の関係構造を俯瞰的に意識化するための意識領野を司る脳の部位は刺激され、それがさらに共生衝動それ自体に影響を与え、そららのプロセス全体が螺旋的な上昇構造を描きながら、今の世界にはまだ存在していない新しい「人間典型」を生み出していくのだ。
「人間典型」というこの観点からいえば、経済至上の今の価値共有世界に何の違和も感じることなく、今のこの世界のあり方自体を肯定的なものとして受け入れながら、日々精力的に生きていける人々は、物欲衝動に根ざしたひとつの「人間典型」を、すでにみずから形作っているということができる。
その種の人々が持つ特有の感覚、感情、感性、資質、衝動性、価値意識等によって、おそらくその種の人々は、今後も変わることのない物欲衝動を基盤にしての「人間典型」として生きていくだろう。そして、物欲衝動を基盤にした金儲け至上のこの価値共有世界を、今後も生み出し続けていくだろう。
この物欲衝動を基盤にした人間典型から離脱したいと欲する人々が今のこの社会の中に存在しているのならば、彼らこそが今のこの世界を超えた別の価値共有世界を創っていくべきなのである。
このための営為は、しかし誰もが予想するほど何ら大げさなものではない。これまでに何度も述べたように、まず少人数でいいから、共生衝動に基づいた同質の価値意識を持つ人々が、誰かの呼びかけに答える形で、集まってみることである。
それは同質の品性と趣味を持った人々が作る読書会や学習会のような語り合いを軸にした文化的小集団でもいいし、あるいはSNSを通じてのネット上の集まりでもいい。その規模は問題でなく、重要なことは、同じ資質の価値意識と衝動性を持った人々が、複数集まり、たがいに仲間となり、ともに支え合いながら、ともに同じ方向性に向かって生きていこうとすることである。そのような価値共有の集団世界を、規模には関係なく、作っていくことである。
同じ価値観・衝動性を持った人間どうしが、一つの集団を作ろうとすることから、まずすべては始まっていくからだ。
~「物欲世界」からの分岐~
集団を作るということについてある作家が語っていた興味深い話がある。その作家は集団形成をめぐる問題を「良き人々の連帯と悪しき人々の連帯」というキーワードを用いて語っていた。
人間は集団化し、連帯していくことで、個人では決して生み出すことのできない力を、生み出すことができるようになる。集団化が持つこの力の存在を熟知し、それを実践している人間は、「良き人々」とは真逆の「悪しき人間たち」だというのが、この話の重要なポイントになっていた。
実際に反社会的勢力と称せられる人間たちは、集団化することで生まれる力の凄さを熟知している。暴力団や半グレ集団という反社勢力が社会的に脅威なのは、彼らが統合された集団の力とそれを基盤にして生まれる組織化された暴力という力を持っているからだ。それに対し、良識のある知的だと自称する人間たちは、群れることを嫌い、自立した個人の力こそ意味を持つと思い込み、集団化することを、逆に避けようとする。
経済至上の価値共有世界では、彼らのようないわゆる知的で良識的な階層は、孤立化の方向に向かって解体され続け、無力化されていく。一方、「悪しき人間たちの集団の力」は、今後も変わることなくその力を持続させ続けていく。だから今からの時代、「悪しき人間の連帯」を凌駕する「良き人々の連帯」こそが意味を持ってくるというのが、その作家の主張であった。
「良き人々」といったような曖昧な規定付けではなく、人間どうしがともに支え合いつながり合って生きていく共生世界を生み出すことに価値を感じる資質を持った人々が集まり、一つの集団世界を作っていくことこそ、今からの時代、真に本質的な営為となり得る。
しかしこの営為は、自分たち以外の価値共有世界に対して明確に境界線を引き、その世界からは分岐していくということを意味している。つまり自分たちとは異質な価値世界との共存を拒否するということでもあるのだ。
これはこれまでの、「人間はすべて本質的には同質の存在であり、すべての人間が相等しく平等な世界を生み出していくことこそが理想である」という、ヒューマニズム的な、あるいは博愛主義的スタンスには反するように思われる。たしかに、違う価値評価意識を持つ人間どうしは、たがいに分岐して、たがいに違う価値共有世界を生きるべきであるという主張は、ヒューマニズム的観点でこれまで理想とされてきたあり方とは反する。
しかし、この「分岐」というあり方は、人間的思考世界を超えた、生命進化的なレベルに立って考えてみれば、決して間違ったあり方ではない。人間的尺度を超えた生命現象的尺度に立って考察してみれば、これまでの生命の進化のすべては、同質のものの中からの異質なものの分岐という形を通して実現され続けてきた。つまり、生命進化とは、同じ生命活動を営む種の世界から、違う生命活動を営む種にむかっての分化の道行きだったということができるのだ。
違う資質の存在どうしが、同じひとつの価値共有世界をともに生きようとすれば、価値意識や衝動性をめぐって、必ずたがいに対立し、否定し合うようになる。そのような統一性を持たない価値共有世界では、内部的な対立や争いが恒常的に発生し、その集団世界は、常に歪みや混乱の中に置かれることになる。
だから価値意識や根本衝動が違うものたちが、たがいに別種の世界に向かって分岐していくことは、生存のための生命的知恵だとも言えるのだ。それまで「同質」だったものの中に「質の違い」が生まれるということ自体が、ある意味では生命が進化するための不可欠の条件だということもできるのである。
共生衝動を根本衝動として持っている人々は、今の人間たちが生み出している金儲け至上のこの文明世界の中で、価値意識や衝動性や欲望の質において、常に否定的扱いを受け、常に少数派としての弱い立場に立たされ続けている。物欲衝動とそこから派生する価値体系に生きる意味を見出すことができず、だから今のこの世界のどこにも生きる場を見いだすことができないまま、彼らは疲弊し、心を病み、生命力を失っていく。その危険性の中にたがいに孤立しあってとどまるよりも、同じ資質を持った人々が今の経済至上の価値世界から離脱し、新しい共生の価値共有世界を生み出していこうとすることこそが、今、この歴史的時点において、もっとも本質的かつ緊急的課題なのだ。
目的は、今の人間たちが生み出している「文明」とは違う質をもった新たな「文明」を、生み出していくという壮大なるテーマともつながっていくのだ。しかし、新たなる文明の創出という現象は、本当に嘘のようなささやかな価値共同性の小集団の形成から始まり、長い歳月を生き続けながら育っていくものなのである。
