~支え合って生きることはそんなに難しいことだろうか?~
経済的困窮に陥ることはそのまま人間としての死そのものであるというこの感覚が生まれてくるのは、経済至上の価値世界の中では、至極当然のことである。そして、一部の富裕層や社会的成功者ではない圧倒的多数の普通の人々の心に常に雨雲のように重くのしかかり続けているのは、いつ我が身にふりかかってくるかもしれない、この経済的困窮の問題である。
一人ひとりが孤立し、つながり合いどころか、かかわり合いそれ自体が希薄になっていく今の無縁社会の中で、経済的困窮の問題は、今後もさらにその深刻度を増し続けていくのは確かなことだ。「経済」という項目を最上位においた価値評価表の共有によって生み出される世界が、不可避的に、必然的に、そのような状況を招き寄せ続けていくのだ。
しかし、もしもかりにこのような世界の中で、たがいがたがいの人生を思い合い、理解し合いながら、たがいが困ったときには、たがいに支え合い、助け合って生きることに本質的な価値を置いた一つの親密なコミュニティのような世界があるとすれば、あるいは、自分ひとりだけが経済的に豊かになることではなく、おたがいに助け合って生きながら、より人間的に、知的に品性的に豊かに成長していくことこそが最も大切なことだと考える、そんな価値観で結びついた一つの文化的集団の世界があるとすれば、少なくとも、「経済的恐喝者」にいつも脅され続けながら生きる人生からは、解放されるはずである。
それほど大袈裟に身構えることでもなく、人が人として、おたがいの人生を思い合い、共感し合い、そしてたがいに助け合って生きることに人間としての本質的価値を見出すことは、そんなに特別なことなのだろうか? 余分にものを持っている人が、不足している人に分け与え、補い合って共に生きることが常識になっている仲間どうしの価値共有世界、そういう世界の実現は、そんなに困難なものなのだろうか?
例えば、そのような価値観、価値評価表の共有で成り立っている、次のような一つの文化的なコミュニティを想像してみる。
そのコミュニティの中の誰かが、ある日、ある事情で、経済的困窮状態に陥ったとする。それを知った仲間の一人が、まず彼のところに駆けつける。お互いに豊かな暮らしはしていなくても、少なくとも、質素な食材を用意して、二人で食事を作り、とりあえず空腹を満たすことはできる。それから仲間たちに連絡を入れる。
仲間たちが集まり、経済的困窮に陥った彼にとって、今必要なこと、今から必要となることを語り合い、そのために仲間たち一人ひとりがやれること、やるべきことを、具体的に決めていく。金銭が必要になればなったで、みんなで知恵を出し合い、方法を見い出す。
こういうスタンスでの助け合いが、仲間一人ひとりの苦境に対して、常に自然に当たり前のものとして自発的に生まれてくるような価値共有の世界――こんなコミュニティを作り出すことは、それほどまでに、困難なことなのだろうか?
~「オープンダイアローグ」から学べるもの~
話は少しそれるが、「オープンダイアローグ」という統合失調症に対する集団療法がフィンランドで開発され、一時期メディアでも取り上げられ、話題となったことがある。これはとても斬新で意表をつくような画期的な内容で、統合失調症の症状が出た当人のもとに、親しい友人や親族や医療関係者等が集まり、本人を中心にして、その本人の苦しみや、思いや、その病気の症状をめぐって、全員で率直に、親身に語り合うという方法だ。
そこには医療関係者がイニシアチブを取るという上下の関係はなく、みんな平等にフランクに、本人を中心にオープンに会話を交し合うということが原則になってる。
統合失調症にかかった人が語る幻覚や幻聴や妄想の話を、異常なものだと決め付けることをせず、その本人の気持ちに可能な限り寄り添い、理解する気持ちで、全員で言葉を交し合う。このような語り合いの場を、必要なだけ継続して設定する。
それはただ無造作に自然発生的に見出された方法ではなく、「家族療法」等を始め、いくつかの精神療法の試みの蓄積の過程を経ながら見出されてきたものだ。この療法が、これまでの精神医学の常識からは説明がつかないほどの成果を挙げていて、その医学的、科学的データも客観的に存在しており、今世界で注目を集めている。
「オープンダイアローグ」というこの新しい精神療法から普遍的に学べることは、次のようなことだ。
治癒することはほとんど不可能で、一生、薬物で抑え続ける以外方法はないとこれまで信じられてきた統合失調症に対して、人間と人間どうしが、たがいに親身になって語り合い、共感し合い、一つにつながろうとする力が、それだけの回復力を生み出すのだとすれば、貧困や経済的困窮の解決など、ものの数にも入らないということだ。
オープンダイアローグが示している医学的事実は、統合失調症は単なる脳の機能的疾患ではなく、人間関係世界の深刻な破綻にその真の原因が求められるということだ。卵が先か、鶏が先かではないが、まず人間関係世界の深刻な破綻が最初にあり、精神的ストレスや苦悩が限界値を超え、それが脳の反応現象に影響を与え、結果的に幻聴や幻覚を誘発させてゆくと考えられるのだ。
それとまったく同じように、あらゆる貧困も経済的困窮も、不幸も、絶望も、すべては人間どうしの関係世界の崩壊に、つまり、理解し合い、支え合い、助け合い、つながり合おうとする関係構造の破綻に、その発生の土壌が存在しているということは確かなことである。
つながり合う力そのものが、心の病を癒し、絶望を治癒し、生きる力を生み出していくというこの事例は、オープン・ダイアローグ以外にも、例えば日本における『べてるの家』や、薬物中毒者たちに持続的な更生の力を与え続けているグループ療法の世界においても、同じように見られるものだ。
それまでは孤立していた人間どうしが、集い合って、語り合う。一人ひとりが本当に心から思っていること、悩んでいること、考えていることを、言葉足らずでもいいから、真剣に、誠実に語り合う。そしてその思いを、皆で共有し合い、互いの心をつなぎ合わせていく。
ただこれだけのシンプルな行為が、心の病や自殺にいたるほどの絶望を癒し、生きる力を生み出していくというこの現象は、よくよく考えてみれば、とても不思議なことなのだ。
人と人の心と心とが、本当につながり合うことによって、そこに生み出されてくる力とは、道徳主義的なボランティア的効果をはるかに超えた、ある意味では魔法のような不思議な力だということもできる。それは、深刻な人間精神の崩壊と脳構造の異常を治癒し、人間に生きる力を与え、人間と人間が生み出す現実世界の在り方自体を、より親密で豊かなものへと作り変えていく。
そしておそらく集団性を求めたこのつながり合いの力によって、私たち人間は、ただの猿人から人間種としての独自の進化を手に入れてきたと考えることもできるのである。
~「つながり合い」は進化した脳機能によって可能となる~
たがいに支え合い助け合い、たがいにつながり合おうとする行為を、今の時代を生きる人間たちは、ただの道徳主義的ボランティア行為としてしかとらえていない。しかし、自己以外の他者に対する共感や支え合いや助け合いを可能とする意識とは、厳密に考察してみれば、生物種の進化過程の中で、より高度に発達した意識だと考えることができるのである。
生物学的見地から人間について考察するさいに、進化した人間種固有の指標として示されるものとして、「前頭前野」の存在がある。前頭前野は人間の脳の進化の中でも最後に発達した新しい部分であり、人間の生物学的規定づけとして「人間とは大きく発達した前頭前野を持つ動物である」ということはよく言われることである。
「前頭前野」は、思考し、記憶し、応用し、判断するという思考に関するものや、情動・感動のコントロールや、コミュニケーションし、対話し互いを理解し合うといった、これら意識能力の全般にかかわるものである。他者への理解や共感や、自分以外の他のものとつながろうとする意識力、自己を相対化する力等は、まさにこの部位によって可能となったより高度に発達した意識能力ということができるのである。
「より高度に発達した意識」というこの在り方との対比で、経済至上の世界を生きる今の人間たちの意識の特性を観察してみれば、そこにみられるものは、それとは真逆の、自己の経済的利害だけに執着する自己閉塞した心の在り方であり、同時に、人間という生き物がたがいに孤立的生存形態に向かってたがいを閉じていく狭窄した自己意識の在り方だと言うことができる。
この自己意識の在り方とは、さらに言うとすれば、自分さえよければいいという個我感覚しか持てない心であり、自分の利害しか意識化できない心の在り方であり、自己を相対化し、他者の立場に立って思考する能力や他者の心と共感する能力を持てない心の在り方だということができる。
この心の在り方は生物種としての人間進化の観点からいえば、閉塞し、硬直し、萎縮し、退化していく人間の意識構造の在り方だと言うことができるのである。つまり、経済至上の価値共有世界は、人間の意識を退化させる負の作用性を持っているということができるのである。

