【7章】「金銭的利害」にもとづいて作られる人間関係

~経済的価値によって判断される人間たち~

 経済的価値、金銭的価値だけが一切であるという価値世界の在り方は、人間の質の低下、人間自体の退化現象を生じさせるだけではない。このことよりも、もっと深刻な変質現象を、人間の世界それ自体に生じさせている。

それは、人間どうしが互いを価値判断する基準が、いわゆる「人間的価値」から「経済的価値」に、完全にとってかわられてしまったということだ。つまり、人間さえもが、経済効果の対象として、お金をより多く生み出せるかどうかによって価値判断される世界が作り上げられてしまったということだ。

より多額の金を稼ぐ人間は、まずそれだけで「優れた人間、すごい人間」として価値評価され、低収入のいわゆる貧困層の人間たちは、その存在自体が、どこかしら薄汚れた劣ったものとして価値評価される風潮が、もうすでに当たり前の感覚として定着するようにさえなってしまっている。

より多額の金を稼げることが人間評価の大前提であり、貧困であることは人間として劣っていることだというこの感覚。

今の時代を生きる日本人たちには想像さえできないことだろうが、かつてこの国では「名もなく、貧しく、美しく」というこのフレーズが、人間の生き方に対する価値観として機能していた時期があった。「有名人でも何でもなく無名の普通の人であること。贅沢を求めるのではなく貧しさを清らか生きうる清貧の人であること。そして、そのような生き方、生活の中で、毅然として、自分自身としての信念を持っていて、他の人々に対する思いやりや優しさの心があり、魂の崇高さ美しさの中を生きる人」。

このフレーズにこめられた思いは、このようなものだった。たしかに今の日本人たちから見れば、「歯の浮くような、ただのきれいごとの、何の意味もない、嫌らしい倫理的たわごと」としか感じ取れないこのフレーズが、日本人の心に感応できた時代があったことは事実なのだ。

~今の時代を生きる普通の人々の心象風景~

 今の時代の中で、しかし「自分は金銭的価値、金銭的利害に基づいて、人間関係を結んでいる」とあからさまに公言するような人間は、ほとんどいないだろう。それどころかほとんどの人間が「自分は人間性に基づいた価値感覚で、相手との関係を結んでいる」と、そう思い込んでいる。

しかしそれは本人が自覚していないだけで、今現在、人間どうしの関係性の基盤となっているものが「ケイザイ性」であることは確かなのだ。

このことについて、抽象的な机上の論理を展開するよりも、まず今の時代を生きている人々の心象風景を、最初に具体的に見てみることのほうが、意味があると思われる。

私たち一人ひとりと地続きの感覚を持ち、同じような人生を生きている普通の人々が、つまり、富裕層には属さない多くの人々が、実は現在、どのような心象風景の中を生きているのかを見てみることによって、今の時代の実相がどういうものなのかが、そこにあぶりだされてくるからだ。

経済的金銭的価値が人間にとってもっとも重要な価値となってしまった世界において、人間が人間として生きていくその内面世界の実相はどういうものになっているかについて、一般的な人々から話を聞かせてもらったいくつかの取材データが手元にある(コロナが本格化する前の2年ほど前のデータである)。これは経済的には中間層に属する普通の人々が、今の時代を生きる生活実感について語ってくれたものだ。

これらの取材データの内、2つのコメントをここに紹介することにする。他のコメントも内容は同質であり、しかしこの2つのコメントが、特に今の時代を生きる人々の内的情景やその生存感覚を、もっとも自然な形で体現していると思われるからだ。

ひとつ目に紹介するのは、30代前半の女性が語ってくれた次のようなコメントだ。

「大人になって社会に出るとだんだん実感していくようになることだけど、人と人とのかかわり合いには、全部、経済的っていうか、金銭的な利害が絡んできますよね。職場の関係は全部そうだし、趣味的なもので知り合った人たちとのかかわり合いも、経済的なものがおたがいに満たされていないと駄目になっていきます。

失業したり、家族に問題が起こって、経済的に行き詰るようになったりすると、それまでとても親しいと思っていた人たちとの関係も、急に途絶えてしまいます。社会的な地位だとか、経済的な豊かさだとか、そういうものがある程度はあって、『この人とつながっていれば、何かのときに役にたつし、少なくとも損失は出ないな』っていう計算が、人と人との関係の世界には、かならずあるんですよね。みんな表立ってそういうことは言わないけど、でも、本音はそうです。

ツイッターやフェイスブックで、信じられないぐらいの数の友達を作っている人たちも、失業したり、重い病気にかかって、経済的に破綻していくと、自分の方から連絡を取るのを、ぷっつりやめていきます。

この気持ちは、私にも痛いほど分かります。貧困層に堕ちていくっていうことがどういうことか、それまで友達だって思って付き合っていた人々にとって、それがどういうふうに映るのか、本人が一番それを知ってるんです。自分たちがたがいどうしを、本当はどこで評価して、受け入れているのか、みんな口には出さないけど、よく分かってるんですよね。」

この女性は、こういう関係性の世界がつらくて、純粋な「愛」の重要さを説くキリスト教の信仰の世界にならば、本当のつながり合いの世界があるだろうと思い、プロテスタント系のある教会に通ったことがあったそうだ。しかし、半年もしないうちに、教会に通うのを辞めてしまったという。今の時代は、信仰の世界においても、人間のかかわり合いの本質は変らないと、彼女にはそう感じられたそうだ。

~経済的恐喝者におびえ続けて~

 40代のある男性の話は、さらにもっとストレートな内容だった。彼が口にした「経済的恐喝者」という言葉は、今の時代の特質を読み解くための重要なキーワードになるという印象を持った。彼が語ってくれた話は、次のような内容だ。

「毎日、毎日、生活していて、いつも頭のどこかに、経済的なことが、ひっかかってますね。昔の古い冷蔵庫みたいに、意識するとブーンって低い音がいつもなってるみたいに、いつも経済的なことが、どこかで気になってる。

今の私たちの生活って、綱渡りみたいなところがあるでしょう。特に非正規雇用の場合はね。先のことが予想つかない。今後、社会がどうなっていくのか、自分が働いている仕事がこの先どうなるか。自分の健康だって、この先どうなるのか分からない。会社が倒産したり、体を壊して働けなくなったりしたら、もうとたんにアウトですよね。助け合いなんて、もうどこにもない時代だから。

家族同士だって、今の時代は、経済的に行き詰ったら、かならず崩壊しますよ。夫が失業して離婚したっていう夫婦の話、最近は頻繁に耳にしますからね。夫婦たがいに助け合って、困難を乗り越えて生きるなんて、それはもう昔の話ですね。家族を結び付けている絆も、今の時代は、もう『ケイザイ』ですからね。心と心の結びつきあいじゃなくって、ケイザイ効果のための結びつきあい。

特に今の若い女性は、露骨なぐらい『ケイザイ的条件』で、結婚の相手を選んでますよ。男の方もそれを知ってるから、それなりの安定した年収を稼いでいないほとんどの若い連中は、最初から彼女を作ることを諦めてる。

結局は、気がつくと、すべてが『ケイザイ』になっちゃってるから。生きることのすべてが『ケイザイ、ケイザイ』。テレビをみても新聞をみても、もう誰もが『ケイザイ』のことしか話さない、そんな時代になっちゃってる。

私、いつも感じるんですけど、今の時代みんながたがいに疎遠になっていくのは、みんな『ケイザイ』の問題に追われて、自分だけ生きるので手一杯だからなんですよ。富裕層の人たちをのぞいて、ほとんどの人は、みんな自分の生活の現場で、絶えず経済的な不安を、いつも抱いている。経済的なことにいつも脅かされてるっていうか。

まるで今の時代の中に、目には見えない“経済的恐喝者”みたいなものが潜んでいて、それが一人ひとりの生活の現場で、孤立した私たち一人ひとりをいつも脅しているみたいで。

『いつ会社が傾くかもしれないぞ。いつリストラにあうかもしれないぞ。来年は派遣の契約が継続できるかどうかなんて、分からないぞ。病気になれば、誰も助けてはくれないぞ。家族や回りのものがお前を受け入れてくれるのは、お前が金を稼げるからだぞ。お前がお金を稼げなくなったら、お前は家族のやっかいものになって、結局、家族からも、他の誰からも相手にされなくなってしまうぞ。』

なんかそういう、脅し文句を、いつも耳元でつぶやかれてるみたいで。だからみんな一人ひとり必死で、他人のことまでかまってる余裕がないんですよ。みんな他人のことは関係なく、まず自分を守るので精一杯で。

そうやって、皆がどんどん、たがいに疎遠になり、たがいに孤立していっています。目には見えない“経済的恐喝者”に脅かされながら、私たちは今のこの孤立した無縁社会にどんどんそうやって追いやられていきます。

この感覚、歳をとれば取るほど、どんどん強くなっていきますよね。私ももうすぐ45歳過ぎますからね。そのうち、賃貸のアパートも年齢のせいで、借りれなくなってしまいますからね。貯えもないし、ホームレスで生きることは、私にはできないし。この先、人生の可能性なんか、どこにもありませんね。そういう世界がいつのまにか、出来上がってしまってますからね。」

~社会的成功者たちの心を麻痺させる擬装された人間関係~

 今の時代の中に目には見えない「経済的恐喝者」が潜んでいて、いつもそれが、私たち一人ひとりの生活と人生を脅している。彼のこの指摘は、どんなに有名な評論家や学者たちのメッセージよりも、現代を生きる私たち一人ひとりの生の本質を射抜いているように思える。

しかし、有名な評論家、経済学者、その他、メディアに頻繁に顔を出しているオピニオンリーダー的存在の人間、つまり世論形成の根幹に位置している人間たちには、このコメントにこめられた今の人間世界の実相が見えないのだ。口先では分かっているようなことを彼らが述べたとしても、彼ら自身が金銭的利害に基づいた欺瞞的な関係構造の中に取り込まれているために、今の人間世界の本質的実相が見えなくなってしまっているのだ。

「経済、お金」という価値項目が最上位に置かれた価値評価表の共有によって成り立っている世界においては、人間どうしの関係も、経済的利害意識をもとにして選択され、作られていくのは自然なことである。特に経済的に成功し、社会的影響力を持っているような人間の回りには、多くの人々が集まり、親交を結び、しかしその関係の基盤にあるものが金銭的利害意識であるというその実相が彼らには見えない。

その人間が社会的に成功し、世論や社会に影響力を持つ存在であればあるほど、彼らと親交を結びたいと望む人間の数は増えていき、彼らに気に入られるための好意的振る舞いによって彼らの関係性世界は満たされていく。その結果、社会的に成功した人間にとって、人間関係の世界は友好的な、人間性に富んだものとして意識されるようになる。

つまり、本質的には金銭的利害という皮相的、打算的なもので集まってくる人間たちとの関係を、彼らはあたかも人間性や人間的価値による結びつきで成り立っていると、妄想してしまうのだ。自分という存在に人々を引き寄せるだけの人間的価値、人間的能力、人間的魅力があると、彼ら自身がそう思い込んでしまうのだ。

作家であろうが、評論家であろうが、大学教授であろうが、映画監督であろうが、ミュージシャンであろうが、メディア人であろうが、有名アスリートであろうが、社会の経済的上層に位置する彼ら自身の社会的価値を作り上げているものは、彼らの社会的地位が生み出す金銭に裏付けされた「経済的価値」であり、その経済的価値ゆえに、人々も、彼らとの親交を望み、彼らのもとに集まってくるのだ。

だから、何らかの事情で、彼ら自身の「経済的価値・商品価値」がなくなり社会的下層に落ちていくとき、あるいは、経済効果を何も生み出せないただの老人になってしまった時、それまで彼らと親交を結んでいた知人・友人と称する人間たちの大半は、みごとなほどすみやかに、彼らのもとから去っていき、その時になって初めて彼らは、自分が接してきた世界の実相がどういうものであったのかについて、気付かされることになる。