【3章】「心の型=人間の質」を生み出す価値意識

~意識の発生基盤にある価値評価の働き~

 生命が生存のために、まわりの環境世界に対しておこなうこの本能的な価値評価の反応現象は、「意識」発生以前の、「意識」形成のための原型的基盤だと考えることができる。ここを基盤にして、おそらく生命は進化の過程で「自覚的意識」を生み出すようになり、さらには長い年月をかけて、それぞれの生命種に固有の内的意識世界を形成するようになっていったのだろう。
 
ホモサピエンスとして進化していった我々人間種の意識において、生命現象の初源にあった対象世界を価値選別する本能的働きは、複雑に高度化し、集団性を不可欠の生存条件とする社会性動物としてさらに進化しながら、今のような人間特有の価値意識の現れとして定着するようになっていったと考えられる。

ここで押さえておくべき重要なことは、我々の「意識」というものは、我々自身の生命現象の根源にある「価値評価」の働きを基盤にして生まれ、進化してきたものであり、我々が自覚していなくても、「意識する」という反応現象の中には常に同時に「価値評価する」という働きが含まれているということだ。

我々がある特定の対象を意識するとき、その対象が何であるかを「認識する」ということにとどまらずに、その対象が自分にとってどのような特有の重要性を持っているかということを判断し識別する「価値評価」の働きが、同時にそこには含まれている。

この価値評価の働きは、あるものに不快感を感じたり、快感を感じたり、あるものを好きになったり、嫌いになったり、そういう情動的現象の中にも一貫して貫かれていると、ニーチェは以下の一連のアフォリズムの中でそう主張している。

上記のアフォリズム群はかなり難解であり、「価値評価意識」と「衝動」の関係を考察しなければ理解できない内容も含まれてはいる(そのテーマは、後に展開していく)。しかし、ここで読み取らなければならないニーチェの思想とは、次のようなことだ。

私たちがあるものを好きだと感じたり、嫌いだと感じたり、また、ある特定の対象に心が惹かれたり、あるいは、別のあるものに嫌悪を感じたり、そういう私たちの内部で常に自然発生的に生じている感情的、情動的な心の動きのすべての根底にも、「価値評価の働き」が作用してるということだ。

つまり私たちは、自分自身にその自覚がなくても、意識に触れる対象に対して、常に無意識のうちに「価値評価」を行い、その結果として、あるものに快感や好感を抱いたり、あるものに拒絶感を感じたり、あるものを他のものよりも重要で貴重なものと捉えたり、また、あるものにはまったく興味を抱かなかったり、というようなそれぞれに固有の心理的反応を起こしていると考えることができるのである。

~価値意識の現れの具体的事例~

 たしかに私たちは、自分にかかわる世界を意識するときに、自分だけの固有の感覚によって、あるものを別のあるものよりも価値あるものとして感じ取ったり、低い価値しか持っていないものとして感じ取ったり、まったく関心を持たなかったり、そういう心的反応を常に行っている。

この「価値意識」というものが具体的にはどういう対象に対して、どういう現れ方をするのかを、ここで俯瞰的に見ておくことにする。「価値意識」というものが私たちの生活体験の隅々まで浸透し、様々なあり方で現れている状態を、「価値意識」考察のための前提として、最初に確認しておくためだ。

まず、分かりやすい事例としてあるものが、品物や物品に対する人間の価値意識だ。ここで重要なのは、価値評価の内容自体が、人によってそれぞれに違うものとして立ち現れてくるという事実だ。

たとえば高額な宝石を最高の価値あるものとして、他の何よりも大切にしている人間が存在する一方、尊敬する作家から送られた手書きの手紙を、宝石以上の価値ある宝物として感じ取っている人間も存在する。ある者にとって、ブランドのバックは最高の価値を持つものであり、しかし別のある者にとってそれは、自分が愛用している使い勝手のいい安物の布かばんよりも、低い価値しか持っていないものとして受け止められる場合もある。

品物や物品に限らず、たとえば、芸術、政治、起業、芸能、スポーツ等といった社会的営為に対しても、人々は、それぞれの価値選別意識を持っている。

たとえば、芸術の世界こそが、他のどんな世界よりも最も価値の高い高尚な世界であると感じている人間もいれば、政治家の仕事こそが、もっとも価値ある仕事だと感じている人間もいる。優れたアスリートになることにこそ最高の価値を感じている人間もいれば、大企業の社長になることこそが、価値が上だと感じている人間も存在する。

価値意識は、さらに領域を超えて、人間の生き方そのものに対する判断、評価としても立ち現れてくる。

たとえばこれは、最近、日本のメディアで頻繁に目にするようになった現象だが、個々人が稼ぐ年収の額がそのまま「人間としての価値」を決定づける基準であると、本気でそう感じている人間たちが増えている(本当の意味で「頭の悪い人間たち」の増加)。彼らにとって、ビジネス的成功を得て富裕層になることこそが、人間としても、人間の生き方としても、もっとも価値あるものだと判断されているのだ。

他方で、貧困や餓死者が未だに存在する世界の中で、富裕層であることに価値を見い出せるような人々は、人間的素養や品格が劣っており、本質的な意味で教養性を欠如させた育ちの悪い人間であるという価値感覚を持った人間も同時に、存在している(欧米のセレブたちが、あたかも罪滅ぼしのように慈善事業へ傾倒していくのは、この種の心理に突き動かされた結果だ)。彼らにとっては、お金をより多く持っているかどうかは人間的価値を判断する基準にならず、人間としての精神性の深さや豊かさこそが、人間的価値を決定付けると判断されている。

政治思想の領域での価値意識の違いは、ある場合に深刻な問題を露呈させることになる。

かつてのヒトラーや彼の思想を信奉するナチズムの人間にとって、「ゲルマン民族」、つまり彼らにとって理解されていた金髪・碧眼・長身という身体的特性を持った「アーリア人」こそが、人間種として最高に「価値ある存在」であった。

これに反し、ユダヤ人は、人間種としてもっとも「価値のない」、それどころか人類文明の発展に害悪となる存在であると判断されていた。そういう劣悪な人種を人間種の中から除去することは、もっとも優れた人種であるアーリア人を頂点にした人類の文明進化にとって「価値のある行為」であると彼らは考え、だからこそ彼らにとってユダヤ人虐殺は「悪」や「犯罪」ではなく、人類史的に価値のある崇高な政治的行為として実行されたのだ。

彼らがユダヤ人虐殺を「悪」としての自覚のもとにやっていたのではなく、それとは逆に「価値ある人類史的行為」という確信に基づいてやっていたということが、価値意識の持つ恐ろしさの極面を示している。

人間の価値意識が病的に歪んでしまったとき、どういう「質を持った人間」がそこから生み出されてしまうのか、そしてそれ以前に、どうして人間の価値意識は、そこまで歪んだものへと育ってしまうことがあるのかという、人間が見極めておくべき根源的テーマが、そこには存在しているのだ。

~価値評価とは差別する働きでもある~

 ヒトラーの事例から見えてくるのは、人間観、文明観の基盤とさえなる価値意識の違いは、「価値観の多様性を認め合ってともに生きる」ということなど絶対的に不可能なほどの力を持って、人間に迫って来るという事実だ。

ヒトラーと同質の価値観を生きる人間と、人間は民族の差異を超えてすべて価値ある貴重な存在であり、だからこそ互いに支え合って生きるべきだと考える人間とが、互いの価値世界を認め合いともに生きていくということなど、絶対的に不可能なことである。

このような相反する価値観の共存が不可能なのは、価値観それ自体が持っているその性質に由っている。

「価値観・価値評価」というものは、単に自分にとって価値あるものを決める働きだけではなく、自分にとって価値のないものを判定し、それらを無視し、否定し、排除する働きさえも持っているからだ。

そのことに関して、ニーチェは次のようなアフォリズムを書いている。

このアフォリズムの後半部の「一切の悪と軽蔑することの一切の不快さとにも関与しなくてはならない」という文章の内容は、少々理解しにくいかとも思われる。しかしまず、ニーチェがこのアフォズムで述べたかった本意を分かりやすく言い換えるとすれば、「価値を評価する、ということの中には、自分にとっては価値を有していないもの、それ以上に自分にとっては有害な価値しか持っていないものを選別し、それを否定し、排除する行為も含まれる」ということである。

ニーチェはニーチェなりの語彙で、「価値とはまずは〈位階〉であり、それは〈差別する働き〉である」というようなことも述べている。その言葉から考えていけば、何ら価値を有していないと感じられるものは「無視」や、ある場合には「軽蔑」や「差別」の対象となり、それ以上に自分にとっての価値に反すると感じられる対象は、あってはならない排除すべき「悪」として、生理的な「不快感」を持って感覚されるということを、ニーチェはこのアフォリズムの後半で述べていることが理解される。

だからこそ、ヒットラーやナチの人間たちは、金髪・碧眼・長身の身体的特性を持った「アーリア人」を最高の人類として価値評価すると同時に、あらゆる有色人種を無価値なものとして否定し、ことにアーリア人を脅かす優秀さを実際は持っていたユダヤ人たちを有害な排除すべき不快の対象として評定し、抹殺することさえ企てたのである。

ヒットラーのような、いびつに歪んだ精神世界を人間が生きているとき、その価値評価意識も、同じようにいびつに歪んでしまっている。というよりも、ヒトラーもその信奉者であるナチスの人間たちも、いびつに歪み続けていくみずからの価値評価意識によってみずからの人生の道行きを選び取りながら、あのようにいびつな人生観、文明観に向かって、みずからを作り上げていったということができるのだ。

価値評価するとは、自分の人生のその時々の瞬間において、「これ」を選び取り、「それ」を無視し、「あれ」を排除し、否定し、そうやって選別した「これ」を自分の生を成り立たせる重要な価値ある構成要素として取り込み、それによって自分の生を組み立て、作り上げていく営為である。

絶えざる「価値評価」の働きが、個々人の生を生み出していく。海風の流れが帆船を動かすように、価値評価する働きが、人生の流れとその方向性を決め、その人間に固有の人生を作り上げていくのだ。

ニーチェは次のようなアフォリズムを書いている。

価値評価意識というものは、自分にかかわるあらゆるものを評価選別しながら、自分の心の在り方それ自体を作り上げていく一つの力・働きとして存在している。「価値観」の内容それ自体が、そのまま人間の「心の型=心の質=人間の質」を生み出す基盤となっており、価値観のまったく違う人間どうしは、まったく質の違う世界を生きていると考えても、決して間違いではないのである。