~つまらない時代のつまらないヒーローたち~
記憶している人はほとんどいないと思うが、今から20年ほど前に『つまらない時代のつまらないヒーローたち』というタイトルのホームページがあった。フェイスブックやツイッターやユーチューブ等のSNSが全盛になる前の時期で、当時はまだネット世界では「ホームページ」が主流だった。
『つまらない時代のつまらないヒーローたち』というそのタイトルに惹かれ、何度かそのサイトをのぞいたことがある。
そのタイトルどおり、そこで展開されていたのは、「つまらない時代にはつまらないヒーローしか生まれない」ということを前提とした上での、「つまらないヒーローたち」に対する痛烈な批判だった。
「つまらないヒーローたち」とは、メディアに頻繁に登場しているオピニオンリーダー的存在の文化人や学者、ベストセラー作家、芸人やテレビタレント等、数多くの「有名人」のことを指していた。
たとえば当時すでに文学界の権威になっていた流行作家の村上春樹などは、凡庸化し俗衆化した世界上流市民の感性をみごとに体現している「つまらないヒーロー」の代表格として、痛烈な批判の対象となっていた。
同じように、当時常にベストセラーを連発し続けていた小林よしのりという漫画家への批判も痛烈だった。
凡庸化し、俗衆化した人間たちで埋め尽くされた世界では、思想家ではなく、たとえば漫画家が「思想もどき」を語り始めるような倒錯した珍現象さえ起こり始める。「漫画的知能」で語られる「幼稚な屁理屈」が、俗衆たちには「思想的知」として受けとめられ、その結果、文化・文明は猿なみのレベルまで退化していく。
「人間種の世界」に代わり、新たな「俗衆種の世界」の誕生を予言するエポックメーキングとして、小林よしのりという漫画家の存在は、そのサイトでは逆説的な意味で歴史的評価の対象にさえなっていた。
他にも興味深い記事や論文が色々あったが、そのホームページの制作者が、それぞれの文章に託して一貫して主張していることは、次のようなことだった。
人々が凡庸化し、加速度的に俗衆化していく時代の中で、売れる作家、売れる文化人、売れるタレント、つまりは「社会的有名人」となるための絶対条件は、同じように「凡庸」であり「低レベル」であることであり、だからその時代にもてはやされた「有名人=ヒーロー」の資質を解析していくことで、逆にその時代の実相が見えてくると。
まるで時代に対する制作者のルサンチマンが渦巻いているようなそのホームページは、しかし2、3年ほどで息切れしたように次第にトーンダウンし、ふと気が付くと、いつのまにかネットの世界から姿を消していた。
あれから20年近くも時は流れ、あのホームページの視点からすれば、さらに俗衆化したようにしか見えない今のこの時代に対して、あのホームページの制作者自身、どのように向き合い生きているのか(生きることができているのか?)と、ふとそういう感慨が浮かぶことがある。
~三島由紀夫の予言と俗衆たちの増殖~
時代に対する同じような強烈な否定感覚は、その無名のホームページ制作者以外、それよりももっと前の時代、昭和の代表的作家である三島由紀夫の中にもすでに同じように存在していた。
1970年の自決の4ヵ月前、三島由紀夫は『はたし得ていない約束』というタイトルで、新聞に次のような文章を寄せている。
私はこれからの日本に対して希望を持つことができない。このままいったら日本はなくなってしまうのではないかという感を日増しに深くする。日本はなくなって、その代わりに、無機質な、からっぱな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目が無い、或る経済大国が極東の一角に残るのであろう。
『果たし得てゐない約束――私の中の二十五年』
三島が予言してみせたような「無機的な、からっぽな、中間色の、抜け目が無い」俗衆たちが、日本だけではなく、世界規模で増殖しはじめたのは、三島の自決からさらに20年ほど過ぎた、80年代から90年代全般にかけてだったように思える。日本で言えば、バブル期からバブル崩壊を経て、パーソナルコンピューター普及によるインターネット開始の時代にあたる。
この時期、家電製品をはじめとする生活材や医薬医療機器等の急速な開発、インターネットによる情報の世界的ネットワーク化等、人類の生活基盤を構成する物質的インフラは、それまでの歴史では見られないほどの、高度な発展を示し始めた。高度なテクノロジーを必要とする生活材が、資本主義生産システムの地球規模での膨張によって、安価な価格で一般の人々の手にも入るようになっていった。
生活は物質的にはより豊かに、より利便性に富んだものとなり、しかし「物質的なもの」がより高度に発展するに従い、それにぴったりと反比例するように、人間の内面の退化が、精神性や品性や創造性や本質的思考力の退化が、著しい速度で始まっていった。
テレビ、小説、映画、演劇、芸能、芸術等の文化的商品を、個々人がどういう基準で受け止めているかは別にして、いわゆる大衆化から俗衆化に向かってのすさまじいほどの質の劣化が、あらゆる文化的領域で生じ始めた。俗衆化した文化人たちや芸人たちが、社会のオピニオンリーダーとなり、世論や世相や社会風潮は、目も当てらないほどの小児病的な劣化現象を呈し始めた。
人間における外面的なもの、見てくれのかっこよさに関わるもの、ライフスタイルからファッションにいたるまで、それらはより洗練され、よりハイセンスなものへと高度化していったと、人間自身はそう思い込み始めた。しかしより洗練されたと思い込んでいるその人間たちの内面、いわゆる心の世界は、より貧相な、貧弱な、物欲だけが肥大化していく卑賤なものに向かって、急速に退化しはじめた。
心の中で生まれる感情や感性の機微。情念や衝動性といったもの、いわゆる「志」という言葉で示されるもの。「当為」を思い描く能力、つまり目的意識。自己成長を欲する志向力。本質とは何かを問いかける根源衝動。他者や他の生命や自然に向かって広がっていく共生感覚。それら人間の精神性を構成する高度で高貴な一切のものが、それまでの歴史ではみられないほどの、劣化、退化にさらされ始めたのだ。
人間精神は世界的規模で、粗雑な、粗悪な、幼稚な、卑賤なものへと向かって俗衆化し、そしてそれは加速度を増しながら、現在も続き、そして今後さらに拍車をかけていく。
~人間における精神・意識の退化現象~
人間の精神・意識がここまで粗悪で、幼稚で、経済性という言葉でいいくるめられる物欲だけを際限なく肥大させる病的に卑しいもの、卑賤なるものへと変質してしまったことは、おそらくこれまでの人類史上、かってなかった現象である。
科学テクノロジーやIT、AIの進歩が、そのまま人間そのものの進化だと人間自身はそう錯覚し、自分たちはより高度な存在として、より高度な文明世界を生きているという妄想の中にいるが、しかし発展し続けるのは欲望の肥大化をあおる金儲けのためのテクノロジーとシステムであり、その基盤となる科学技術だけである。人間の内面にかかわるもの、人間それ自体の質にかかわるものは、信じられないほど卑賤なものへと変質し、退化してしまっている。
そして異常なことに、このことに気付いている人間は、圧倒的少数なのだ。
今からこの作品において展開していくのは、上記で述べた、人間精神の退化現象を生み出しているその原因となっているものについての詳細な思想的分析と考察である。
そして、今の人間たちの文明、その世界を生み出す中心にいる「主役たち」が、どのような資質を持った人間であるのかについての解明だ。
人類が人類全体として、今の人間の退化現象を引き起こす原因となっているのではない。ある特定の「資質」を持った特定の人間たちが社会、経済、文明の主役となり、彼らによって今のような精神的退化現象が引き起こされているのだ。
この退化現象から離脱し、新しい人間の世界、新しい人類として生まれ出ていけるのは、決して、今のこの世界を生み出している今の世界の「主役」たちではない。このことことだけは明確に断言できることだ。
