【10章】今の人間の文明は「反知性的」である

~人間における「物欲衝動」と「共生衝動」〜

 共生を求め、たがいにつながり合おうとし、たがいに共感しあおうとする意識の働きとは、個我領域にだけ限定されていた自己意識領域が、自分以外の他の心の領域に向かって大きく広がり、変容していく現象だということができる。つまり、自分以外の他の領域を包み込むようにして、心、意識が大きく育っていくということだ。それを可能とする意識の諸機能自体が、高度なものへと育っていくということだ。

これら共生を可能とする能力を、人間は仲間や集団を求める生き方の中で育てていったと考えることができる。つまり仲間や集団を求める資質を、人間は本来持っているということなのだ。そしてこの集団を求める資質とは、人間存在の根底にある「共生衝動」を基盤にしていると考えることができるのである。

集団を作ったほうが生存のために有利であり便利であるからというような効率性の観点や次元を超えて、人間存在の根底に「仲間を求め、共生を求める衝動」が本来的に存在しているのではないかということなのだ。

この「共生衝動」は人間種に固有のものとして、長い長い進化のプロセスの中で育っていったものだと考えることができる。しかし他方で、今の人間たちを突き動かしているものが、他の動物にはみられないほど異様に肥大してしまった「物欲衝動」だということはたしかなことである。つまり、人間の中にはこの「物欲衝動」と「共生衝動」という相反するものが、生存のあり方を左右する2大衝動として、存在していると想定することができるのである。

「共生衝動」は、人間が人間種として進化する過程で芽生え、育ち、人間を特徴づける重要な要素として働いてきたものであり、「物欲衝動」は欲望を実現化するための知的技術の進化に誘発され刺激され、他の動物種には見られないほど異様に肥大化し続けてきた衝動だということができる。

~「衝動」と「哲学・思想」との関係~

 ここで少しの間だけ「衝動」についての考察に、戻ることにする。「共生衝動」と「物欲衝動」への対比的考察を進めていくために、「衝動」についてもう少しだけ確認しておくべきことがあるからだ。

「衝動」という意識作用が人間の価値意識形成の根底にあるということについては、第5章の『「衝動」と「価値意識」と「内的価値評価表」との関係』で述べている。この「衝動」をめぐって今からさらに探っていきたいことは、「価値意識」を生み出す基盤にあるこの「衝動」というものは、「価値意識」だけではなく、人間における「思考・考え方」それ自体をも根底から生み出していくということについてである。

つまり、その人間が持っている根本衝動が「物欲衝動」なのか「共生衝動」なのかの違いによって、そこに生まれる思考の内容や思惟様式のあり方自体に、質的な違いが現れてしまうということだ。

「思考・考え方」と「衝動」の関係について考察するさいに、もっとも適したサンプルとなるものは、「哲学・思想」における思考の構造である。哲学や思想と言われるものは、客観的事実を土台とした理論的考察を積み重ねながら進められていく純粋な知的思惟の働きであり、それは個人的感情や衝動の影響を排除したものだと、一般的にはそう考えられている。

しかし純粋な思惟の働きだと信じられているこれらの知的能力でさえ、価値意識形成とまったく同じように、その根底で「衝動」が決定的な影響を与えていると、ニーチェはそう指摘しているのだ。

「客観的事実」に基づいた「論理的推論」が哲学的思考を導いていると誰もがそう信じて疑わないが、しかし真実はそうではなく、哲学者本人の“ある特定の結論を欲する「衝動」”がまず最初にあって、その「衝動」が論理性を装いながらそこに展開され、表現されているとニーチェは、そう指摘しているのだ。

この種の問題に関して、ニーチェはいくつかのアフォリズムを残している。

これらのニーチェの表現は難解だが、この複数のアフォリズムを熟読すれば、哲学や思想をその背後で生み出しているものが「衝動(「本能」、「生理的根本要求」等の言い方もしている)」であるということは、充分に理解できるはずだ。思想・哲学とは、客観性を装った“「衝動」の偽装”であり、“「衝動」の言い訳”であると、ニーチェの考えをそう表現してみることも可能である。

たとえばヒトラーがそうであったように、敵対視する特定の民族との対比によって、自国の民族の優越性を客観的事実や論理的思考を駆使して証明してみせようとする民族主義者たちのその思想の根底には、自分こそが最高の存在だということを自己証明してみせようと欲する強烈な「自己肯定衝動」や「権威衝動」「権力感情」が複合しながら働いていると考えることができる。

彼らの心理の根底には彼ら自身にさえも自覚できていない根深いコンプレックスがあって、それが彼らの「権威を求める衝動」を誘発させ、ある特定の民族を否定、あるいは卑下することで自国の「民族」に優越性を持たせ、そのことによって自己存在の価値の拠り所を見出そうとする思考回路を形成させてしまうと考えることができるのである。

あからさまに言ってしまえば「自分はすごい存在なのだ!」と思い込みたがる強烈な個我肯定欲求が最初にあって、それが彼らに自国の民族の優越性を結論付ける特有の民族主義思想を捏造させているということになるのだ。

~「物欲衝動」が生み出す人間の「常識」~

 厳密な論理的客観性を基盤としているはずの思想や哲学でさえ、それを根底で生み出しているのがその当人の衝動であるのならば、一般の人々の心の中に自然に浮かんでくる「考え」や「常識」というものさえも、その本人が持っている衝動の影響を強く受けていると考えることができる。

たとえば、経済至上の価値共有世界において、圧倒的多数の人間たちが、それを当然のこととし、それを自然な考えだとし、常識とさえ思い込んいる様々な「考え」も、それを根底で生み出しているのは「物欲衝動」だと考えることができるのである。

ひとつの分かりやすい事例として取りあげるとすれば、今の時代を生きる人間の特徴を批判的に指摘するさいによく使われる「金だけ、今だけ、自分だけ」という言葉がある。今の時代を生きるほとんどの人間たちの「本音」は、「金だけ、今だけ、自分だけ」という「考え方」だということを指摘した批判の言葉だ。批判の言葉ではあるが、経済至上の価値世界を生きる今の人間たちの思考の根底にあるものを、見事に射抜いた言葉でもある。

自分にお金があれば他の人間のことはどうでもいいし、今が幸せなら未来の人間たちのことはどうでもいいし、自分が物質的に豊かな生活を送れているのなら他人のことなどどうでもいいというこの「考え方」。すべて人間の幸福の基盤にあるものは物質性であり、つまりはお金であり、自分だけの利害を求める物欲衝動である。それが今の人間たちが生み出している文化文明のすべてにまで貫かれている。

スポーツも芸能も芸術も、メディアや教育や政治も、その一切の根底でうごめきそれらを稼働させているものは、経済効果という名の金銭衝動であり、物欲衝動である。「結局はお金でしょ」というこのあからさまな言辞が、実はすべての社会的人間的事象に対して言えるのだ。

親が子供を育てるのも、子供に投資し、良い大学、有名企業に就職させ、より多くのお金を稼げる人間にするためである。それが教育についての彼らの「考え方」である。「人間性の成長」のために学問はある、という「考え」は今のこの世界においては通用しない。企業活動にどう貢献でき、どれだけの経済効果を保証しうるものか、つまりはどれだけ金儲けにつながるのかということが、学問や科学的研究への社会的評価の基準となる。

物欲衝動によって生みだされている今のこの経済至上の世界では、すべてが単純明快である。すべてがマネーの法則で成り立っている。物欲衝動が一切の人間的事象、文化的文明的事象の根底でうごめいている。これが「衝動がすべてを生み出す」ということの明確なる構造である。

 ~「物欲衝動」が「知性の広がりの力」を阻害する~

 人間において、物欲衝動がここまで肥大化した原因は、先にも少し触れたように、科学技術の進化がそこに深くかかわっている。経済至上の価値共有世界の中では、純粋な知的探究衝動を基盤にしている科学的研究でさえもが、ビジネスのための、つまりは金儲けのための道具として利用されるようになり、その結果、科学は人間の欲望実現のための技術として発展するようになっていった。

より人間の欲望を刺激し、より購買欲をあおる商品の開発のために科学テクノロジーの進化は不可欠のものとなり、科学の進化が人間の欲望の肥大化をあおり、人間の欲望の肥大化が、科学技術の進化をさらに要求し、本来は純粋な知的探究衝動を基盤にしているはずの科学が、物欲衝動と融合してしまうという歪んだ構造が出来上がってしまったのだ。

このような科学の変質現象に見られるように、物欲衝動が人間の意識活動、特に知的活動に与える影響には、深刻なものがある。それは物欲衝動それ自体が人間が本来的に持っているはずの「知性の広がりの力」を阻害し、それを狭窄された領域へと密閉させてしまうからだ。物欲衝動と直結した思考しか持つことができなくなり、人間の意識の働き自体が、本質的な意味合いにおいて、「反知性的」なものへと変質してしまうのだ。

今の人類が生み出している文明がいかに「反知性的」であるかを明らかにするために、ここで少しSF的な想像力を働かせてみることにする。

宇宙空間を自在にワープできるほどの高度な知性を持った宇宙人が存在しているとして、今の地球上の人類の状態を観察したとすれば、次のような判断を下すはずである。未だに同じ生命種どうしで殺戮を繰り返し、生存のための資材を奪い合い独占し合い、一つにつながり合う知性を持っていないこの人間という生物は、低レベルの凶暴な原始的生命体であり、距離を置いて、その動向を観察することだけに限定すべきである、と。

それは私たち人間が、サバンナの野生の動物たちの弱肉強食の世界(あくまでも弱肉強食であって、動物たちは人間たちのように、同じ種どうしで殺戮しあうほど野蛮ではない)に対して、直接介入することはせずに、純粋な観察の対象として扱おうとすることと、同じことだ。同じ生命種どうし殺戮を繰り返す原始的生物が、他の星から来た知的生命体に対してだけは、友愛の態度を示すということなどあり得ないということは、宇宙人だけではなく、私たち人間にとっても、明確なことである。

今の人間が生み出している物欲衝動を基盤にした文明世界とは、高度な科学的テクノロジーの発達が部分的に見られたとしても、人間の精神、心、意識構造のあり方として、そして人間というその生物種のあり方としては、本質的な意味において、「反知性的」でしかあり得ない。そのような「反知性的世界」において完全に欠落しているのは、自分たち人間の生存基盤それ自体が、様々なかかわり合いやつながり合いによって有機的に生みだされ構成されていることを認識し、実感するための知性的広がりの力だ。

人間の文明を成り立たせている人間独自の経済的政治的システムをはるかに超えて、自然の力や働き、他の生命の存在や地球全体の環境や、それを生み出し守っている宇宙生成のメカニズム、そういったより本質的で根源的なものへと向かう知性の広がりの力が、物欲衝動によって阻害されてしまうのだ。

たとえばその傾向は富裕層の人間たちの精神性や意識構造をみれば明確に分かることだ。自家用ジェット機で世界を回り、地球全体が自分たちの私的所有の対象となりうると思い込めるほどの物欲衝動の異様な強さ。地球の一切が自分たちの占有物の対象となりうると本気で考えている無知ゆえの傲慢さと、さらには将来的には月や他の惑星さえも人間の金儲けのための投資の対象となると考えるお金のことしか念頭に浮かばないその精神の異常なほどの貧困性。

彼らが常に思考を働かせるのは、金儲けのこと、物欲衝動を満足させることがらに対してだけだ。だからこそ、人間の世界に存在している不平等な矛盾に満ちた「反知性的」な社会構造のあり方を、自分たち自身にとっての本質的テーマとして対象化する知力もないまま、物欲衝動によって成り立っている今のこの世界の在り方を、当たり前の当然のものとしてしか感じ取れないのだ。ものごとの本質、根源にまでいたろうと欲する思索や思想を成り立たせるための知性的な能力は完全に退化し、彼らの意識世界の中に生まれるのは、物欲衝動と溶け合った「経済的思考」だけである。

もう一度繰り返すが、彼らの中に完全に欠落しているのは、我々人間が、明確なる生命現象として、あらゆる自然や他の生命や地球という惑星や宇宙生成現象との深いかかわりとつながり合いの結晶として生成していることへの知性的実感だ。人間こそが世界の中心であり、宇宙の所有者だと思いこむことのできるその精神の異常性とその幼児性、それは彼らの中に真の意味での知性の広がりの力が欠落してしまっていることを示しているのだ。