~お金によって幸福は買える~
社会的成功者や有名人にとっての関係性世界だけが、金銭的利害を基盤にして成り立っているわけではない。さきほど取り上げた男性のコメントにもあったように、たがいがたがいを支え合い助け合うための最後の砦である「家族」さえもが、今では「経済性」が不可欠の成立基盤となっている。
実際に現代のほとんど大半の家族をつなぎとめているものは、「家族愛」以前に、まず「経済性」、つまり「お金」であり、だから夫の失業が、そのまま離婚につながるというケースは、現代においては、もうすでに自然なことになっている。経済的に苦しいときにこそ、たがいに支え合い、助け合って生きるという真の心のつながりは、ほとんど大半の家族からは、消え去ってしまっている。
表面上は夫婦愛や家族愛に満ちているように見える現代の家族は、何らかの事情で経済的困窮に陥る時、その真実の姿をさらすことになる。愛さえも、現実には「経済」がその基盤で支え、生み出しているものであり、お金がなければ、愛はそこに育たないということを、今の家族や夫婦は世界に対して証明してみせている。
おそらく、お金さえあれば幸せが買えるというのは、今の時代においては、否定することのできない真理である。
お金があれば、たしかに家族という形態は維持され、そこでの生活は安泰になる。しかし経済的に安泰な家族であっても、家族が家族として本来持っていた本質的な機能を、今の家族はもう喪失してしまっているのだ。
~密閉されていく家族の世界~
家族とはもともと社会を成り立たせる最小集団単位として機能していた。社会を形成する人間関係の最小基盤として、自分たち家族以外の他の人間たちとのつながりの世界に向かって、それぞれに開かれた通路を持っていた。そこで成り立つ他の人間たちとのかかわり合いやつながり合いの網の目構造によって、社会という共同世界自体が形成されていた。
しかし経済的価値だけが至上のものとなった世界の中で、この家族集団が求める価値対象は、他の人間たちとのかかわり合い、つながり合いの方向へは向かわなくなっている。
自分たち家族だけが、あるいは自分たち夫婦だけが、経済的に豊かで安定していること、それが彼らにとっての人生上の最大の価値対象となっている。この価値観が、彼らの生き方のすべてを貫いていく。
そこに見られるのは、より強さを増していく「自己中心的」な生存世界のあり方であり、「自分さえよければいい」という狭窄した価値観で成り立った世界の在り方である。そして、自分たち家族だけ、あるいは夫婦だけに向かって密閉されてゆくつながりの世界の実相である。
密閉されていく家族・夫婦という世界を生きながら、人々は、自分たちの家族以外の他者の世界に対しては、過酷なほど無関心になっている。
~孤立の度を加速度的に深めていく無縁社会の実相~
「密閉されたつながり」にみずから閉じこもっていく現代のこの家族たちは、ほとんどが一世代で閉じられた小人数の核家族として存在している。核家族というこの共同関係も、経済性を基盤にしての、便宜的なものにしか過ぎない。子供世代の独立と共に、親は二人だけで閉じられたさらに密閉度が増した経済生活に入っていく。
その生活の中でも、これまでと同じように、自分たちだけの経済的安定を最大の価値対象として求め続け、残りの人生を生きていく。そして、いずれかならずやってくる夫婦間の死別を経て、生き残った夫婦のいずれかは、独居老人としての純正の孤立世界に入っていく。
独居老人の存在は、経済的・金銭的価値が最上位に置かれた価値評価表の共有世界においては、何の意味も持ち得ない。というよりも、金銭を引き出せる対象として以外、誰にとっても(実の子供たちにとってさえ)、老人たちはその存在意味を持てなくなっている。多額の資産を持っていない圧倒的多数の一般的な独居老人たちは、その存在の社会的意味を完全に失い、純正の孤立世界に放置されることになる。このようにして、結局は、かかわり合い、つながり合う相手を一切失った完全孤立の老人たちの独居の世界が、いたるところに広がっていく。そして、同じ現象が、子供世代においても繰り返されることとなる。
これは誰も否定することのできない現代の人間の生存形態の特徴である。夫婦であろうが、家族であろうが、一人者であろうが、すべてそこにあるのは、「密閉」され、「内側に向かって硬く閉じられてゆく生存世界」であり、孤立の度を加速度的に増していく無縁社会の実相である。
~消費機械としての人間~
人間が、経済的価値、金銭的利害の材料として存在するようになったということを否定する者たちは、たとえば非正規雇用で働く人々の人生の道行きについて、思いをめぐらせてみればいい。企業が求めるものは、資産的・金銭的により多くのお金を得ることであり、内部留保を増やすことであり、そこで働く人間たちはそのために利用されるだけの材料に過ぎない。つまり「非正規雇用」という就労条件は、企業にとって最大の利益を生み出すものなのだ。
今ではもう圧倒的多数になってしまった非正規雇用の人々の生活実態がどんなに不安定であっても、彼らが常に「経済的恐喝者」に脅されつづける不安な人生を生き続ける以外にないとしても、企業や社会や国家にとって、それは何の意味も持ってはいない。そして、非正規雇用の不安定な生活の中で、彼らが資産を残すこともできないまま高齢者になったとき、回りの人間たちは彼を経済的リスクの高い不要な荷物として扱うようになり、人間が人間として最低限度生きるために必要な賃貸の部屋さえ、彼らは借りることが出来なくなってしまう。
歳を取っているという理由だけで、大家が賃貸物件を貸さないというこの現象は、経済至上主義の今の時代の中では当たり前のことになっている。人間が人間として何よりも率先して避けるべきことは、「経済的リスク」であり、人間関係においてもこの原理は最優先されるべきであると、誰もがそう信じて疑わない世界ができあがってしまっているからだ。そして誰もがこのような世界を自分たち自身が生み出しているということを、異常なことだとは、感じなくなっているのだ。
社会にとって、国家にとって、そして今の人間たち自身にとってさえ、市民・国民・人間とは、経済活動をより活発化させるための消費機械としてだけ意味を持っている。国民の誰もが、際限もなく次から次へと商品を購買し続けること、外食産業の活性化のため、不必要な外食行為がより多くの人間の習慣となっていくこと、観光、興行等のあらゆる娯楽産業分野における消費行動を国民すべてに煽り続けること。これらのことが、国民経済にとって唯一意味あることであり、最高度に重要なことなのだ。自分たちが生かされているそういう世界のあり方に対して、疑念を抱く国民は、まったくと言っていいほど存在してはいない。
消費だけが価値ある行為として求められ続ける経済至上のこの世界の中で、個々の人間は常に、年収や職業で値踏みされ続ける。そして、人と人との関係において、思いやりや、優しさや、支え合いこそがもっとも重要だという価値意識は、育つ土壌を失っていく。
経済的に不安定な場で生き続けるしかない圧倒的多数の人間たちにとって、経済的価値だけで成り立っているこのような社会自体が、何か常に理解不能な悪意を持って自分を疎外してくる非人間的な冷たい世界にしか感じ取れなくなってくる。「人がこわい」というような漠然とした感覚が、経済的下層を生きる人々の心の中で(あるいは一般的な人々の中でも)、今、確実に育ちつつあるのは事実である。他の人間や社会や世界に対する微弱な憎悪の波動が、経済的恐喝者に脅され続ける人々の心の奥底で、ひそかに育ちつつあることも、また確かなことである。そして、経済的困窮に陥ることは、そのまま「人間としての死」そのものであるという実感が、すべての人間たちの心の中に生まれていることも、同様に確かなことなのである。

