【2章】人間には「質」の違いが存在する

~「勝ち組」であることの資質~

 今の時代の中で常に生きにくさを感じ、「勝ち組、負け組」という言葉を平気で口にできる人間たちに知的な嫌悪感を抱き、しかし決して今の時代の主役にはなれず、自分を否定的にしか感じ取れないでいる人々。回りには秘めてはいるが「ヒト(人)がこわい」という思いを常に心の奥底で感じ、この世界のどこにも自分の資質にみ合う居場所が見つけられず、時には心を病み、時代への違和感、孤立感、絶望感の中、かろうじて日々を生きている人々。

こういった人々こそが、新しい世界を生み出す資質を持った人間だと言っても、大半の人は信じはしないだろう。

今、人間たちが生み出している世界の中では、こういった人々は、心が弱い人、適応能力がない人、社会生活を営む才能がない人、ある場合には「頭の悪い人」というレッテルさえはられている。

「頭が悪い」というのは、今の「経済」一辺倒の世界では「金儲けへの欲望と知恵」を持っていないことを意味している。逆に言えば、「頭の良さ」の絶対条件とは、「銭勘定と金儲けにめざといこと」であり、「勝ち組」になれる人間の特質は、ここに集中される。さらには「勝ち組」となるための資質としては、次のようなものが挙げられる。

意識が異常と言っていいほど鈍重なこと(こんな世界の中で、心を病むことがないほどの心的センサーの粗雑さ)。心が異様に浅いこと(価値意識の異常な低さ)。凡庸なこと(常に多数派に迎合する精神性しか持てず、常に多数派的知能しか持てず、常に多数派に支持されることを欲している精神の俗物性)。物事の「本質や根源」に向かおうとする本質的知性の欠如(だから今のような世界を生み出し平気でいられる)。心が生まれつき卑賤なこと(金銭勘定以外に、高貴で高度な哲学を欲する資質の圧倒的欠如)等が挙げられる。

こう書けば、まさにこの文章自体が、「負け組」に属する人間のルサンチマン以外の何ものでもないと、そう決めつけられてしまうのは容易に予測できる。しかし、真実はそうではないのだ。

「今、人間たちが生み出しているこの世界を否定的にしかとらえられず、この世界を生きることに絶望しか感じ取れない」、ということは、実は一つの才能なのであり、しかも、本質的な才能なのである。この才能と資質の持ち主によってしか、「新しい世界」は生み出せないし、「新しい人間」として生まれ出ることも不可能なのである。
最初に書き進めていくのは、そのことについての理論的検証であり、証明である。

~ニーチェの価値思想~

 まず、最初に明確にしておくべきことは、「人間には〈質〉の違いが存在する」ということである。

その「質の違い」によって、今、人間たちが生み出しているこの世界、その文化、文明を、肯定的に感じるのか、否定的に感じるのかの違いが生じてくる。
 
これまで「人間の質」について語ることは、短絡的に優生思想的観点と混同されがちで、誰もそれについて正面から語ることをしなかった。しかし、最初に明確に断言しておくが、ヒューマニストたちが思い描いているように、人間は皆、同じ存在なのではない。明確な「質」の違いを持ちながら、皆が同じ社会・世界で生きている。そのことが、あらゆる矛盾や苦悩や悲劇の発生源となっている。

最初にタネ明かしをしておくとすれば、人間としての「質」の違いを生み出す基盤にあるものは、意外に思えるかもしれないが、すべての人間が持っている「価値意識(価値観)」である。

人間や、生き方や、社会や文化・文明に対し、どういうあり方を「価値あるもの」として感じ取るのかというその感覚、感性、思想性。ここに「人間の質」を決定付ける本質的なものがある。

「価値の多様性を認め合う」といった言葉に見られるように、一般的には「価値意識」というものは、単なる傾向性や志向性の違い程度のものとしてしかとらえられていない。しかし、それは表層的な理解でしかない。「価値意識」には、人間存在のあり方を根底から決定付ける、絶対的と言っていいほどの力と働きとが存在している。

人間における価値意識の問題に、誰よりもこだわった哲学者は、フリードリヒ・ニーチェだった。

ニーチェといえば「神の死」や「権力への意志」や「永劫回帰」をめぐる思想ばかりがとりあげられるが、本質的な観点から言えば、ニーチェの思想的モチーフは、「価値意識」に始まり「価値意識」に終わるといっても過言ではない。

ニーチェが提示してみせたものは、ツァラツストラという存在に象徴させようとしたように、人間を超える人間が生まれ出るための、新しい「価値創出」の哲学であった。彼はそれを古代ギリシャの貴族的気質に依拠して思索を深めていったが、しかしここでは、ニーチェのその思想自体を検証することは目的ではない。

ニーチェが具体的に提示してみせた人間の「価値意識」、ニーチェの語彙にしたがえば「価値評価意識」についての考え方を参考にすることで、「人間における質の違い」の本質的構造が、明確になってくるのだ。

そしてそこから、人類が今生み出している文明が、どういう「質」を持ったものであるか、どういう「質を持った人間たち」によって生み出されているものか、そして、今後、どういう「質」を持った文明を生み出していくべきだと考えればいいのか――こういった人間存在の根源にかかわる哲学的テーマが、浮き彫りにされてくるのだ。
ニーチェ思想を参照する目的は、そこに限定される。

~価値意識の起源~

 価値意識とは、簡潔に説明するとすれば、自分にとってあるものやあるあり方が、他のものや他のあり方よりも、より重要であり、より貴重であり、より本質的であり、上位の格にあると感じる感覚のことだ。

たとえば、人生を生きる上でもっとも価値あることは、社会的地位を得ることだと感じる心のあり方と、他者を思いやれる豊かな人間性を持つことこそが、人間としてもっとも価値あることだと感じる心のあり方。あるいは、富裕層となり、より多くの金銭を得ることが、人間としてもっとも価値ある人生だと心から実感する意識のあり方と、ともに助け合い、支え合い、ともに協力し合って生きる社会を作ることこそが、人間としてもっとも価値ある生き方だと実感する意識のあり方。ここに見られるのは、それぞれに真逆の対象を志向する価値意識の働きだ。

このような価値意識の働きは、人間に固有の現象のように思われる。自分がかかわる対象に対して価値評価を行い、それらの価値を選別するという意識の働き自体が、高度な知的現象としか、考えられないからだ。

しかしニーチェはこれを、人間に限定されたものではなく、すべての生命に共通して存在する普遍的現象だと主張する。しかもその原型は、生命の初源的状態においても、すでにそこに存在していると。

ニーチェの「価値思想」が秀逸なのは、人間的現象として現れる価値意識の発生基盤を、生命現象レベルにまで掘り下げ、探究しているところにある。

ニーチェは次のような場面を、価値意識の発生土壌として考えている。

たとえばここに、一つの原核生物が存在しているとして、生存するために周りの環境とかかわろうとする限り、生存のため必要なもの、有利なもの、あるいは、有害なもの等を選別し、生存のためにより有利なものを選択し、取り込み、有害なものを回避、排除するという能動的な働きがそこになければ、生命現象を維持すること自体が不可能になってしまう。つまり、生命が生命として生きるための「生命本能の眼差し」のようなものとして、すでにそこに、対象世界との関係を価値選別する「価値評価」の働きが存在していると、ニーチェはそう考えるのだ。

その考えを、ニーチェは次のような短いアフォリズムで言い表している。

このアフォリズムでは「評価する」とだけ訳されている部分は、のちの文章を読み進めていくと「価値評価する」と同じ意味で使われていることが分かる。つまりどんなに低級な単細胞生命でも、それが生命である限り、そこにはみずからの生存にとっての価値を評価する働き(意志)が存在していると、ニーチェはここでそう述べているのだ。それこそが自然的な物理反応現象からは区別される、「生命」固有の反応現象の特質であると。

たとえば、原核生物がまわりの海水に触れ、その被膜や繊毛に蠕動運動が生じているとき、そこには自分を取り囲む環境と、自分の生命現象との関係を探ろうとしている価値評価の原初的働きが存在していると、ニーチェはそう考えるのだ。